楽しかった懇親会も終わり、いよいよ皆とお別れであるという感じが強まります。これから先に同じメンバーで集まるのも極々少なくなると思うと、うるさかったあの教室もやけに恋しく、また懐かしくあります。
さて、そんな別れの場ですが、先生方、同級生みんなの盃を断ってしまい、結局お酒を飲んだのは数滴程度と場を白けさせるような行いをしたことを、少し申し訳なく思います。そしてこれからの新生活で、歓迎会などのイベントで僕がお酒を飲まないということで、気分を害される方がいるかもしれません。
しかし僕は、お酒を飲みたくはないのです。
僕の家では、父がお酒を飲みます。父は酔うと記憶をなくすタイプの人です。その姿を見ていると、僕もこうなってしまうのだろうか、という怖れがあるのです。記憶をなくすのがとても怖いのです。
また、自分の箍が外れてしまうのも怖れているのです。酔っ払うことを免罪符に、多少の行いは許されるという印象があり、その意識により自分の抑えが外れて失礼を働くことが怖いのです。
そしてこれは他人のことも含まれますが、嘔吐がとても怖いのです。嘔吐されても僕は多分何も対処できず、ただその場から逃げてしまうでしょう。というか、逃げていました。同じく自分の嘔吐もとても怖く、避けたいものです。
これらの理由により、僕はお酒を飲みません。飲みたくありません。
もちろん、一人でゆっくり自分を試し、許容量を知れば、この様な恐怖を抱く必要もないでしょうが、そのような行為さえ怖く、ただ盲目的にアルコールを避けてしまいます。また、今のところ僕の周りには、見境なく飲酒し、みっともない姿を晒すような大人はいません。
近年は、「飲みニケーション」という単語も影を潜め、社会的な付き合いでの飲酒の強制も少なくなりました。とても嬉しく思います。ただ、体質的にアルコールに弱い人ならともかく、僕のようにただアルコールが嫌いだから飲まないというのは、まだ許されている気がしません。
飲酒が喫煙ほど嫌悪感を持たれることはないでしょう。将来も成人後の飲酒習慣というものは縮小されずに根強く残るでしょう。それはお酒の成り立ちから考えると当然のことであり、消えることのない文化としてずっと継承されていくことでしょう。それでも社会は多様化が進みます。僕のようなただ嫌いだから飲酒しない、という意見も、もっと認められる日が来ることを願っています。
そして最後に、僕は父のことを嫌悪しているわけではないこと、「飲み会」という場自体にはむしろ好意的であることを伝えておきます。